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お知らせ。
突然ですが、http://tatsuroosada.typepad.jp/へ移転いたします。
今後ともよろしくお願いいたします。
# by frdmoptn | 2008-02-28 02:28
0 5 7 3  feb.25 
春一番(二番?)の砂塵が吹き荒れるなか、昨日は調布の新居の鍵をうけとり、模型と本を中心に、笹塚の部屋から少しだけ荷物を移動する。

今日は引き続き部屋の荷物をまとめて、午後から新宿で一本映画を観たあと千駄ヶ谷の津田ホールへ移動し、東京ガスアーキテクトセミナー2008、伊東豊雄×藤森照信×西沢大良×藤本壮介 『SUMIKA~プリミティブな暮らし~』 を聴講。講演をうけてちょっとぼくなりに言いたいことがあるので、少し時間をとってまとめてから投稿したいと思う。

事務所バイトは、実は一昨日までスキーで長野に出向いていた関係で今日まで一週間休みをもらっていたのだけれど、ようやく疲れもとれきったところでまた明日から再開。

最終的な引越しが今週末なので、今週はいろいろと大変な予感。それにしても、「少し時間をとってまとめてから投稿したい」内容が、ここのところずいぶんたまってしまっている。
# by frdmoptn | 2008-02-26 00:17
0 5 7 2  アンダーコンストラクション 
週末は事務所に休みをもらい、昨日は前々から狙っていた、「建築の記憶-写真と建築の近現代-」展へ足を運ぶ。

14時から写真家の畠山直哉氏と伊東事務所の古林豊彦氏による記念講演会、「アンダーコンストラクション」があったので、それにあわせて会場である港区白金の東京都庭園美術館へ。土曜ということもあってとても人手が多く、展覧会自体はかなりおもしろそうだっただけに、後日改めて訪れなおすことに決めて早々に講演会場に入る。

演題の「アンダーコンストラクション」とは、畠山氏が伊東豊雄に依頼されて、《せんだいメディアテーク》の着工から竣工までの32ヶ月間の様子を写真で記録したものをまとめた、2001年刊行の同タイトルの作品集によっている。

建築の「専門家」というわけではない写真家・畠山氏は、かつて海外の評者に、自身のことを"retriever"とたとえられたという。つまり「レトリーバー」は、どこかへ消えたとおもったら何かをくわえて戻ってくるが、自分が持ってかえってきたモノがどのような意味のものであるのかを必ずしも認識していない。ただしその傍らには、「レトリーバー」が持ってかえってきたモノの意味を正確に知る人間がいる。

作品集『アンダーコンストラクション』は、「レトリーバー」としての写真家・畠山直哉と、正確な意味を知る立場としての建築家・伊東豊雄との間に進められた作業であり、そこには総体として、「レトリーバー」の目線ゆえに捉えられたあるユーモラスが存在している。

そういった関係の図式が昨日の講演ではそのまま落とし込まれて、レトリーバー・畠山氏が自身の写真をスライドで示して当時の直感的なまなざしを回顧しながら、伊東事務所で《せんだい》を担当した古林氏が被写体の正確な「意味」についての解説をその都度傍らから加える、という少しかわった形式で進んでいった。

建築と写真をめぐって交わされる話というのは、両者の奇妙な「符合性」ゆえに、いつもどこか概念的で難しい話になりがちだが、今回はスライドに示された建設現場のひとつひとつのシーンについて、そこにうつしだされているモノの具体的な意味を実直に明かしていくといった、とてもシンプルで直截的な内容だった。

畠山氏はごく素直に「それが工事中であったから」という文脈で「アンダーコンストラクション」という言葉を用いたが、《せんだい》の独特なコンセプトの下で実際に現場に関わった人間にとっては、「アンダーコンストラクション」とは「工事中」という一義的な意味合い以上のものがある。という、「アンダーコンストラクション」という言葉をめぐる多次元的な内実がスライドが進むにつれ次第に明かされて、《せんだい》とは何なのかが語られていく。

すでに完成している建築を、われわれは現在的な位置からしか眺めることができない。もう見ることはできないアンダーコンストラクションの時間、つまり過去の時間は、写真だけがとどめている。けれども他方で、畠山氏が最後にいっていたように、完成してなおわれわれが不思議に心を掻き立てられるのは、建築自体に、それをつくりあげるプロセスの中で繰り広げられてきた荒々しく生臭いモノとの格闘の記憶が、いまなお残存して生きつづけているからに違いない。あるいはそのとき建築は、つねに"アンダーコンストラクション"である、ともいえるのではないか。

内容の明快さゆえにある意味ではとても啓発的だったせいか、終了後には会場から相次いで質疑の手が挙がった。仕事としての建築写真をめぐる「社会性」と「直感性」の問題など、質問に応える畠山氏の発言もスリリングでうなってしまうものが多かった。

僕自身も、最近考えることが多かった構築という営為の「外科施術的」考察(?)という個人的な問題関心にたいして今回の講演内容にはとても感化されて、久しぶりに刺激的な余韻に浸りつつ帰途に着いた。(その内容もここに含めてアップしたいのだけれど長くなってしまうので、少し時間をとって整理してから、近いうちに別枠でまとめたいと思う。)
# by frdmoptn | 2008-02-17 12:28
0 5 7 1  A lacks B 
ここのところ、ある種の「欠落性」ということについて、ぼんやりと考えはじめている。

つまり、ひとつの慣習的に完結したあるべき全体的なイメージから、われわれがあるものが「欠落している」と意識するとき、その「欠落性」に対して、われわれは「全体性」とは別種の有効な意義を認めることがある。あるいは「全体性」とは別種のなにがしかの意義を予見して、「欠落」を作為的につくりだすこともある。

どちらにしても、その「意義」というものは、当然「全体性」に対する意図的なアンチテーゼであるときもあるし、そういうところとはまったく無関係なものであることもある。

そういうのを全部ひっくるめて、「欠落性」とはいったいなんなのだろうかということ。そして欠落性が「有効な意義」たりうる臨界/限界はどこにあるのだろうか、というところまで。

「構築」とも「崩壊」とも「破壊」とも違う、「欠落」、「欠損」、「欠如」、「欠乏」。それにたいする、作家の介在性、非介在性。まだうまく言葉にできないのだけれど。
# by frdmoptn | 2008-02-10 23:10
0 5 7 0  feb.10 
今日は、某ディベロッパー勤務の大学時代の友人と夕食。久々に会って互いの近況を報告。思考のジャンルやスケールが違うのでなかなか刺激になる。今日は妹島事務所の友人からも久しぶりに連絡があって、彼女からは急遽ホームパーティーのお誘いだったのだけれど、彼との先約があったのでお断りする。彼女の建築にたいするガッツ(?)は、つくづく尊敬に値する。なんにせよ、方々にいろんなネットワークを広げておきたいものだ。
# by frdmoptn | 2008-02-10 22:25
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