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0 2 7 0  体験に根ざした無意識、それを反転させてみる 
ドアを開けるときに、手前に引いて開けますか? 向こうに押して開けますか? つまり、pullしますかpushしますか、という問題がある。 この問題を有効に考えるにあたっては、例えば今自分が【内】か【外】どちらの空間にいるのかといった種の前提条件の存在が、自ずとひとつのキーになる。 むしろそういう前提が無ければ始まらない。

高2のころイギリスへ短期留学していたある晩、僕はいつものように夕食を済まし下宿先のアパートへと帰った。 アパートに戻り、玄関のドアを開けるための4ケタの暗証番号を入力し、いざノブに手をかけた。 ところが、いくら苦戦してもドアはびくともしない。 暗証番号が間違っているはずはなく、しばらくわけが分からずにいると、運よく中から友人がひょいと出てきた。 内側から出てきた彼は、ドアをpullして出てきた。 つまり本来外側からはpushするべきはずであったドアを、僕はただひたすらpullしていたということになる。

本来ドアは【内】から【外】なる方向へ開くものだという、無意識の了解。 それはごく当然の了解なはずで、家の中から外へ出ようとするとき、人はほぼドアをpushしているはずだ。 逆に外から中へ入ろうとするときにはpullしているはずだ。 いわば体験に根ざした無意識として、ドアを開けるという行為が導かれている。 ドアをpullするかpushするかということは、【今自分が立っている場所】と、【これから踏み入ろうとしている場所】との間に、ある種の空間的ヒエラルキーが存在しているからこそ顕在化してくる問題だ。 だから両者が互いにほとんど等価であるときや、あるいは両者の性質ジャンルが互いに全く異なるもので、そもそも特定のヒエラルキーが存在し得ないときには、別にpushでもpullでもかまわない。 なぜなら、空間A→空間Bという運動と、空間B→空間Aという運動は、AイコールBのとき、あるいは逆にAとBが全く異種の性質を伴っている場合には、おそらく同質のものとなる。 そしてそのようなときには、pullという行為とpushという行為は、単なる【行為】としての域を脱しない。 つまり例えば、ダイニングとリビングとの間にある扉を開けましょう、という話になれば、それをpullすべきかpushすべきかということは、特に議論に上るものではない。 それはpullかもしれないし、pushかもしれない、どちらでもいいのであって、pushあるいはpullという行為は、「ドアを開ける」という行為以外の何物でもない。

しかし、空間のヒエラルキー、そして体験そのものがもたらす「無意識の了解」を逆手にとって、空間にある意味づけができないか。 つまり、ドアというものが【内】なるものと【外】なるものの境界であるとしたときに、本来それが備えている(と無意識に思い込んでいる)条件を何とかうまい具合に利用して、【内】と【外】を横断する「体験」そのものを反転できたら、とてもおもしろいのではないか。 そのときには、そもそも思い描いていた空間のヒエラルキーさえも、あるいは全く別なものとして認識されるようになるのかもしれない。

以前あるコンペにあたり計画した 『PQR.apartment』 という学生アパート。 コンセプトは 「都市環境に表明された部屋」、というもので、これは幅1.5間×奥行き8間という細長いワンルームを単位ユニットとして、それらが横に3つ並んで"都市環境に置かれる"、というものである。 ユニットの正面ファサードは全て開口として構成され、それが全面的に開放されれば、内部が一貫に見通せてしまう。 この全面開口部において、境界の体験を反転させてみることを考えた。 現象としては単に、ドアが通常とは逆に、"【内】へ向かって"開くようにしたこと、ただそれだけなのだが、要するに、【内】としての学生アパートの部屋と、【外】としての学生街という都市環境、その狭間に存在する「境界の体験」を反転させることによって、【部屋】と【都市環境】という空間の関係性が、本来のヒエラルキーをある種解消したものとして立ち上がるのではないか、と見込んだのだ。 "ドアを開けて都市へ入る"、"ドアを開けて部屋へ出る"、といった感覚。 都市はもはや【外】ではないし、部屋はもはや【内】ではない。 結果としてこの操作は、提案全体に対するある種のアブダクションとして、見事なまでに機能した。

体験の無意識と実際の行為とのギャップが、意識の内にある空間のヒエラルキーを組み替える、という興味深い可能性。 最も注目すべきことは、このときドアを開けるという行為が、単なる行為にとどまっていないということかもしれない。 その行為の体験を介して、人は空間の状態、自らの身体と空間とのかかわり、というものを意識する。 あるいはそれこそ、行為そのものが空間と身体を取り結ぶインタフェイスとして機能しうる。 体験に根ざした無意識。 それを疑い、時に巧妙に反転させてみることによって、新しい見え方で空間が組み上がってくる、ということもあるのかもしれない。
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by frdmoptn | 2005-05-15 17:49
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