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0 5 5 5  崩壊について 
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久々に書評。佐藤彰著、『崩壊について』を読む。

文章の表現や切り方、連ね方にちょっとクセがあって読みづらいのだけれど、内容はそれなりに興味深く、前々から気になっていたこともあって、一日で読み上げた。

主にヨーロッパを中心に、史実に残るさまざまな「建物崩壊」の事例が、その背景にあった時勢や建設にまつわるストーリーなども含めながら、いくつかのテーマに章立てられて淡々とまとめられている。総体としては文字通りの「建物崩壊の歴史」といえるが、願わくば個々の事例を超えて、「崩壊」という現象のまわりにある、もっと踏み込んだ包括的な意味論的考察、それこそ"「崩壊について」"、みたいなものを読みたかった。

「崩壊」とは「破壊」ではない以上、「構築」という概念の逆再生のようなものではないし、ましてその対極ではない。というのは、よく考えれば「構築」とは、我々がいま・まさにつくりあげようとしているものが、いま・つねに「崩壊」という現象に抗しつづけて形象をととのえていく過程の集積そのものであるのだ。一見レトリックのようにも聞こえるだろうが、語弊をおそれずにいえば、「崩壊」とはつまり、「構築」行為のもっとも基底に横たわってそれを完結へと導く、ある種の指針場のようなものではないだろうか。あるいはもっと直截的に表現すれば、「崩壊」とは「構築」の積分断面である、とさえ言えるかもしれない。

そう考えれば、建物があるとき何の前触れもなく崩れ落ちていく「崩壊」の様とは、その建物をめぐる「構築」にそれまで込められてきたあらゆる厖大な「意思」の断層が一挙に露呈して、通常であれば感知されるはずのなかったその長大なパースペクティブが人々の目前であんぐりと口をあけている図式、つまり文字通りの「断面」そのものなのだろう。(大袈裟な仮説を立てれば、すなわちその前後で意思の絶対量は不変なのだ。)

第一章で、モンス・デジデリオの絵『聖アウグスティヌスと子供のいる幻想的廃墟』とともに指摘されているように、人々が時に崩壊の様相に一種のメランコリックな甘美さや夢幻の世界を見取ってしまうのも、「構築」と「崩壊」のそういった原理的な関係性、そしてむろん、「構築」に対する人間の意思の元来的な強度があってこそなのではないだろうか。

「構築」と「崩壊」は分けがたいものであるという意識。あらゆる構築行為は、つねに崩壊という暗黙のラインの先に営為される。それゆえ構築行為に捧げられる「意思」とは、その暗黙のラインをいかなる叡智をもって越えていくかという、極めて原理的な強度を必然的に内在している。
by frdmoptn | 2007-12-20 01:43
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