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0 5 5 9  《ヘビ》 再考 
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一週間くらい前に友人が僕の部屋に泊まっていったときに、昨年のいまごろ僕が課題で取り組んでいた住宅、通称《ヘビ》の模型と、そのときの段階的な思考のプロセスが記録されているエスキス帳数冊をひっぱりだしてきて、《ヘビ》のコンセプトとその形成過程からなにから一通りを顧みる、という機会があった。

たとえば最終的に提出した案と、それと並行して考えていたいくつかの案を時系列に比較していくと、そのときはあまり意識していなかった自分の思考のパターンを発見したりする。そしてその「クセ」、というか形象化にあたっての「スタンス」は、その立ち現れ方をさまざまにかえながらも、どうやら思想的には(そんなに高尚なものでもないけれど)これまで自分が考えてきたどの課題にも無意識に通底しているようだ。(この「クセ」とか「スタンス」の具体的になんたるか、は、いずれまた言葉を整理してここにまとめたいと思う。)

ただ、今年は一年を通していささかスケールが誇大なものばかりつくっていた。だから今年一年、自分にとって最も根源的な、言い換えれば地に足をつけたまま思想を展開できたのは、《ヘビ》を除けば、やっぱりこれも住宅の、《バットレスハウス》くらいかもしれない。

進行中の第4課題が停滞気味のなか、もっと濃密に考えなければいけないなと、《ヘビ》を振り返って大いに自省する。量塊にもぐりこんだ「ヘビ」のように、視点を内面へ反転させなければいけない。俯瞰する「神」ではなく、潜り込む「ヘビ」へ。

確かに現実のプロジェクトはこのくらいの密度がないとやっていけないんだよ、と、第3課題で了二先生にいただいた言葉を頭のなかでリピートしつつ、我ながらいまふたたび《ヘビ》に感化されて、停滞を打開するヒントをぼんやりと視認したところで年を越える。

***
以下 1/5 追記。

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1  view from north

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2  BTH

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3  snake

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4  D

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5  elevation
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# by frdmoptn | 2007-12-31 15:12
0 5 5 8  アンプレックス 
26日の南洋堂でのレクチャー後の歓談の席で、南泰裕さんとお話をする機会があって(もちろん僕から声をかけさせていただいたわけだけど)、その関係で、昨日は南洋堂からほんとうに目と鼻の先にある南さんの事務所、アトリエ・アンプレックスにお邪魔して、その場でちょっとだけ模型製作のお手伝いをした。

南さんの著作のうち、『住居はいかに可能か―極限都市の住居論』『トラヴァース』は、個人的な関心に引き寄せつつ、前々から興味深く読んでいる(特に前者は部分的には数回読み返している)。ただ、独特の精緻な言葉の連なりは少し難解で、理解しきれていなかったところもあり、これを機にというわけではないが、再び本棚からひっぱりだしてきてぱらぱらとめくり、目にとまったところを読んでみる。

年が明けるとまた忙しくなるのでしばらくは学校のほうに集中するつもりだけれど、春休みに入って余裕ができたらまたお邪魔したい。(という旨を伝えて失礼し、リスボントリエンナーレのポスターをお土産にいただいて、そのまま実家へ帰省する。)
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# by frdmoptn | 2007-12-29 19:50
0 5 5 7  ル・トロネ 
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p.32

『Architecture of Truth: The Cistercian Abbey of Le Thoronet 』

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# by frdmoptn | 2007-12-27 02:53
0 5 5 6  アールトの居ない空間 
GAでの安藤忠雄『DETAILS 4』出版記念レクチャーは、あの1階ギャラリー部分に2,300人はいようかという大盛況ぶりで、安藤さんとの距離もとても近く、そのおかげでひとつひとつの言葉がいつもとは違い妙に説得力のあるメッセージに思えた。建築の「リアリティ」をつねに忘れずに設計を行うこと。それが大事なのだ。

終了後、前々から欲しかったル・トロネのモノクローム写真集、『Architecture of Truth: The Cistercian Abbey of Le Thoronet 』をブックショップにて手にとって眺めているうちに、耐えに耐え切れなくなって思い切って購入する。そしてすぐに神保町へ移動し、南洋堂4階のN+へ上がった。

「アールトの居ない空間―フィンランドの建築」と題されたレクチャーは2部構成で、まず第1部でアールト以後現在に至るまでのフィンランド建築のおおまかな輪郭が語られて、第2部でディスカッション及び質疑応答、という形式。

第1部では最初に、アールト以後のフィンランド建築の流れが、「辺境の国/コーヒーカップ」、「旅愁のイタリア」、「ヘルシンキ・オリンピックと機能主義」、「民族大移動とスタンダード委員会」、「郊外―田園都市思想の復活」、「コンクリート・ブルータリズム」、「有機体―オーガニック建築」などといった章立てで駆け足で語られて、そのあとフィンランド内外で現在活躍する建築家が紹介された。

"コーヒーカップの真ん中にいると上方を仰ぎ見ることしかできないが、カップの縁にいるとそのなかで起こっていることすべてを俯瞰できるのだ"、という、ヨーロッパ建築史の本流にたいする辺境としてのフィンランドの地理的文化的スタンスの例えは印象的だった。

もうひとつ、小さな異なるボリュームを地形に合わせて重ねていくという、建物の配置にかんする特性が頻繁に指摘されていたけれど、そのことは原理的に解釈すれば、たとえば森の中にそぞろに乱立する木がしだいに気配をまとってボリュームとなり、異なる間合いを保持した多様なボリュームの群が、そうして地形に定着したひとつのまとまりとして立ち上がっていく、そういうようなプロセスなのではないのか、と咀嚼する。

スライドの区切りで、ところどころにムーミンの絵が効果的に挿入されていたのだけれど、それに関して鮮明に印象に残ったのは、どの絵でもムーミン達は、たとえば暗がりの中に灯ったランプの明かりの下に輪になって腰をおろしていたり、深い森の中に煌々と焚かれた火を囲んでいたりと、(それ自体は特段変わった構図ではないのだけれども、)なにかフィンランドには、光とか闇に対する僕らとは異なる視線の強度というか価値観というか、そういったものがあるんじゃないか、と、ふと思ったことだ。

日中でも暗い冬と、白夜で日が沈まない夏。平均化すると日照時間は地球上どこでもおなじなのだが、その較差が激しいゆえの、日本とは違う視線の強度。あるいは茫漠とした流氷の海と鬱蒼とした森との、いわば中間項を欠いた「較差」もまた、特有の視線の強度を導いているかもしれない。そういうものが特異なエッセンスとして働いて、なにかしら建築として形象化している部分が当然あるはずだ。

第2部ではそのことについて質問をしたり、終了後の歓談でもパネラーの大久保さんに個人的に改めてお伺いしたのだけれど、いまひとつ明確な回答は得られなかった。ただ、しばらくはひとつの問題意識に据えてもよさそうなテーマだし、そういう目線でアールト周辺を見直してみる価値もあるはずだ。(以前僕が《バットレスハウス》をもっていったときに、赤坂先生がヨーロッパの日射とゴシックのバットレスとの原理的な連関性について指摘をしていたけれど、このことはそういう部分にも通じる話なのかもしれない。)
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# by frdmoptn | 2007-12-26 23:35
0 5 5 5  崩壊について 
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久々に書評。佐藤彰著、『崩壊について』を読む。

文章の表現や切り方、連ね方にちょっとクセがあって読みづらいのだけれど、内容はそれなりに興味深く、前々から気になっていたこともあって、一日で読み上げた。

主にヨーロッパを中心に、史実に残るさまざまな「建物崩壊」の事例が、その背景にあった時勢や建設にまつわるストーリーなども含めながら、いくつかのテーマに章立てられて淡々とまとめられている。総体としては文字通りの「建物崩壊の歴史」といえるが、願わくば個々の事例を超えて、「崩壊」という現象のまわりにある、もっと踏み込んだ包括的な意味論的考察、それこそ"「崩壊について」"、みたいなものを読みたかった。

「崩壊」とは「破壊」ではない以上、「構築」という概念の逆再生のようなものではないし、ましてその対極ではない。というのは、よく考えれば「構築」とは、我々がいま・まさにつくりあげようとしているものが、いま・つねに「崩壊」という現象に抗しつづけて形象をととのえていく過程の集積そのものであるのだ。一見レトリックのようにも聞こえるだろうが、語弊をおそれずにいえば、「崩壊」とはつまり、「構築」行為のもっとも基底に横たわってそれを完結へと導く、ある種の指針場のようなものではないだろうか。あるいはもっと直截的に表現すれば、「崩壊」とは「構築」の積分断面である、とさえ言えるかもしれない。

そう考えれば、建物があるとき何の前触れもなく崩れ落ちていく「崩壊」の様とは、その建物をめぐる「構築」にそれまで込められてきたあらゆる厖大な「意思」の断層が一挙に露呈して、通常であれば感知されるはずのなかったその長大なパースペクティブが人々の目前であんぐりと口をあけている図式、つまり文字通りの「断面」そのものなのだろう。(大袈裟な仮説を立てれば、すなわちその前後で意思の絶対量は不変なのだ。)

第一章で、モンス・デジデリオの絵『聖アウグスティヌスと子供のいる幻想的廃墟』とともに指摘されているように、人々が時に崩壊の様相に一種のメランコリックな甘美さや夢幻の世界を見取ってしまうのも、「構築」と「崩壊」のそういった原理的な関係性、そしてむろん、「構築」に対する人間の意思の元来的な強度があってこそなのではないだろうか。

「構築」と「崩壊」は分けがたいものであるという意識。あらゆる構築行為は、つねに崩壊という暗黙のラインの先に営為される。それゆえ構築行為に捧げられる「意思」とは、その暗黙のラインをいかなる叡智をもって越えていくかという、極めて原理的な強度を必然的に内在している。
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# by frdmoptn | 2007-12-20 01:43
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