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www.populouscape.com先日大学院の講義で紹介された、世界の都市人口データを全球上に3D視覚化したショートフィルム、"PopulouSCAPE=人口景"。人口分布だけでなく、都市と都市の相互関係を如実に示す航空路や主要道路のネットワーク、またインターネットによる非可視的なバックボーンの様態の一端などをリアルに視覚化している。地表のはるか上空を心地よいBGMとともに夜間飛行しながら、世界の都市の現況に直感的な思索をめぐらすことができるのは非常に快感。 参照 : 伊藤香織/都市居住のグローバルな表現に関する研究 (pdf) ▲ by frdmoptn | 2006-05-04 14:02 今日は早稲田大学芸術学校の入学式、@早稲田理工学部キャンパス。これから3年間、夜間ここで建築を勉強していく。少なくとも最初の2年間は大学院とのダブルスクールになる。並大抵のしんどさではないだろうし、いろいろあるだろうけども、学びたいことに真正面から格闘できる環境が得られた以上、がんばりたいと思う。
『10+1 No.42 グラウンディング 地図を描く身体』を購入。ここ数日、東京をひたすら歩きまわっていると、札幌との都市空間の身体体験の圧倒的な違いが実感される。そんな中で今は、大学院で4月から研究していく"空間情報学"に関して、とりあえず僕なりにいろいろ切り口を探っている段階だけれど、こいつを読みながら少し方向性や問題意識をつかんできたいと思う。石川さんの文章を以下に引用。この感覚。 - 一方で、私たちはしばしば、自分が「どこ」にいるのかということを意識する。街を移動しながら、私たちは頭の中に、実際にはそのような視点から(少なくとも肉眼では)見たこともない都市の全体像、道路や市街地の地理的な分布を描いている。思い描く図像は必ずしも緻密なイメージとは限らないが、たとえば山の手線に乗って移動するとき、私たちの頭の中には、池袋を上にした丸い(緑色の)路線の形が、車窓の風景とは別な次元で浮かんでいて、私たちはそれほど強く意識もせずに、現在の自分をその中に位置づけている。 関連記事 : 0 3 7 1 Google Earth ▲ by frdmoptn | 2006-04-02 01:20 Villa SavoyeGoogle Earthで遊んでみる。札幌の自宅マンションはもちろん、地元の高校も実家も、全部ばっちり捉えられている。元来自分の地理的感覚は結構自負しているけれど、日常的に感じる身体的な地理空間のスケールが、非日常的なズームインとズームアウトの視点を介して数秒後には一気に他の「日常スケール」へジャンプ=ワープしうる感覚は、非常に示唆に富むものがある。例えば、パリで知り合った友人たちとワインをあけて語らったラ・ビレット公園の運河沿いの芝生をみつけた後に、サヴォア邸に瞬間移動し、ボローニャのポルティコをめぐった後、すぐに北京へとんで、紫禁城の朱屋根の森をさまよう。世界中のいろいろな「局所」においてこれまで自分が感じてきた日常的な地理空間の現実性が、新たな把握の次元の中で一気に定位し、結びついていく。こんなスペクタクルはないかもしれない。リアルタイムなデータであればもっとおもしろいのだけれど。 関連記事 : 0 3 1 5 VR空間 ▲ by frdmoptn | 2006-02-04 18:53 『情報都市論』を読む。
建築、情報、都市計画、社会学などの分野の研究者が、「情報化時代」における「都市の変容」を、それぞれ章ごとに論じている。なかでも一番興味深い論を展開していたのは若林幹夫氏。建築は社会観察の視程をもっと掘り下げていかなければいけない。 - 注意すべきことは、こうした"解放感"や"全能感"が、電気的・電子的な情報メディア技術に媒介された行為や関係それ自体の属性なのではなく、そのようなメディア媒介的な行為や関係と、それ以前から存在した物理的で地理的な場における行為や関係との間の"差異"や"落差"を通じて見出されるものであるということだ。 (中略) 別の言い方をすれば、電子メディアに媒介された行為や場は不可避的に、物理的な空間の中での物理的な身体による相互行為に基礎を置く既存の社会―ここではそれを便宜的に「リアルな社会」と呼んでおこう―の中に、その「リアルな社会」を社会的な文脈として「挿入」されるのである。都市という場が社会の大きな広がりの中でもつ意味が、都市を通じて結びつき、交通関係に置かれる都市以外の諸領域との関係の中でしか理解できないように、電子的なメディアに媒介された「ヴァーチャルな空間」がもつ意味もまた、そうした空間が「挿入」される文脈を構成している物理的な場所や身体からなる都市や社会との関係の中でしか理解できない。電子的なメディアとそのネットワーク上に現れる「ヴァーチャルな都市」や「サイバー空間」を、「リアルな都市」や「リアルな空間」から切り離された自立的な場のようにして語ることはできないのである。 関連書籍 : 都市の比較社会学―都市はなぜ都市であるのか ▲ by frdmoptn | 2006-01-01 16:45
杉本博司 : 時間の終わり 展へ。
世界中の水平線を切取った《海景》シリーズは、池田亮司によるサウンドインスタレーションとあいまって、期待していた以上に示唆に富む作品だった。展示空間全体に響き渡る、聞こえているのかもしれないし聞こえていないのかもしれないようなパルスサウンドが、目の前の水平線の「緊張」を代弁し、またそれを意識の中に維持させる。その緊張は不意にぷっつりときれてしまうような危うさの中にあるものだが、同時にまた不動な概念としてそこにありつづけている。そして、ときどきその不動さを疑いたくなるような不思議な感覚に襲われるとき、時間というものの意味が静かに流れ込んでくる。また、映画一本分の長時間露光による《劇場》シリーズも面白かった。時間は軌跡を残して通過し、その後に残された空間は、無限の先まで続く「時間の終わり」を静かに生き続けている。だが時間が既に終わっている以上、そこでは「無限の先」や「生きる」といった概念も、もはや無効なのかもしれない。そういえばこんな映画を、前にどこかで見たような気もする。 関連記事 : 0 3 5 2 dataplex ▲ by frdmoptn | 2005-12-30 12:20 明日の家田先生の特別講義の予習もかねて、『東京のインフラストラクチャー―巨大都市を支える』の関連箇所を再読してみる。地下に潜った交通インフラがもたらす意識の中での離散的なトポス、その集合体としての「東京」ということに関する、次のくだりは興味深い。
- 荷風や内田百閒の『東京日記』(1973年)などを読むと、東京の街を眺める著者の視点が地点から地点へ、まるで車窓の景色を眺めるように連続的に移動することに気づく。彼ら戦前の作家の視点がかくも連続的であるのは、実際に「歩く」荷風の場合は当然にしても、彼らが、東京を地上で縦横に走りまわる市電を多用していたからではないかと筆者は考えている。しかし、こうして地下鉄が都市内の主要な移動手段となるに従って、人々の認識する空間はこのような連続的なものから離れ、やれ六本木、やれ銀座というように駅を中心にして地域的に限定されてまとまった空間として認識され、しかもそうした個々の空間が、地下鉄路線というリンクによって離散的につながっている、という認識に変わってきたように思われる。 関連書籍 : 10+1 No.39 生きられる東京―都市の経験、都市の時間, p146 『地下街』 東京スタディーズ, p209 『トーキョー・トレインズ』 原広司 ディスクリート・シティ 関連記事 : 0 3 2 0 地下街、見えざるディストリクト ▲ by frdmoptn | 2005-12-21 12:24 このことに関して、以前の記事と併せて引っぱってみる。
X-Knowledge HOME 特別編集No.6 PUBLIC SPACE 都市のささやき 平野啓一郎 : 『疾駆する空間―WEARABLE IDENTITIES』 - パリのメトロ4番線は、シテ駅を中心として、街をほぼ南北に縦断している路線で、これに始発駅から終着駅まで乗っていると、この都市の複雑な人口構成が、まるでパノラマのように鮮やかに展開されて興味深い。 - 家を出た瞬間、人は、家庭の中での「父親」や「息子」といった属性を剥ぎ取られて、輸送される一群の集団の中の一人となる。この時、乗車駅と下車駅は、彼のアイデンティティの最後の痕跡であり、またそれを迎える最初の門であるが、乗り継ぎや乗客の入れ替わりといった過程が複雑化するほど、彼の匿名性は純化されていくことになる。 - 今や我々は、場所の呪縛から解放されて、複数のウェアラブルなアイデンティティを駆使する生活を営んでいる。その時、交通路とは、人を速度の中に見失わせ、未然の個体へと洗い出す無名の空間として、時間の中を疾駆しているのではあるまいか。 若林幹夫 : 『都市への/からの視線』 第6章 : 速度、あるいは東京論の無意識へ - かつて社会学者のモーリス・アルヴァックスは、空間と集合的記憶との関係を論じるなかで 「空間とは持続する現実である」と述べた。だが、現代の東京では、ある土地空間や建築物が持続する現実として現れることを可能にするような集団的な同一性や空間的な同一性を形成させにくくする日常的な異和と移動が、社会生活の基本的な様態をなしている。異質な人びとが移動しつつ共にあるという意味で、共同体ならぬ<共異体=共移体>と呼ぶべきこの現代の都市のなかで、土地や空間は、人びとの社会的な同一性を積極的に担保する共同体の表象ではなく、日常的に移動する膨大な数の人びとの行為や活動のいわば「背景」へとしばしば退いていく。 若林幹夫他 : 『「郊外」と現代社会』 - しかしながら私の考えだと、今日のこの「速度体制」のなかで暮らしているわれわれは、ある意味でみんな「群集」なのです。巨大な広がりのなかで、大量の人がお互いに知り合うことなく、毎日日常的に動き回っている。(中略)たまたま集まった人々が群れて、群れながら動き回るという社会、かならずしもコミュニティをつくらないで移動を常態として暮らしている場所が、今日の都市なのです。(中略)駅前の人々の雑踏や電車に乗っている人々の集まりなどは、われわれが潜在的に持っている社会のあり方が目に見えるかたちで出てきたものです。 0 1 6 1 脈動 /posted at 2004-12-18 02:31 - 地下鉄。 都市の脈動である。 駅に進入し、やがて出て行くその量塊。 地下鉄が都市の下を疾走する姿は永遠に不可視であり、およそ誰にも知られることはない。 23時の都市公園。 地下鉄はちょうどその下を走っている。 僕らがその存在を推測する手がかりは、その地表に穿たれた、いくつかの出入り口によってでしかない。 僕は、そのうちのひとつを選び取る。 そこから階段を下りながら着実に位置エネルギーを下げ、切符を買う。 改札を抜け、ホームへと出る。 乾いた電子音とともに電光掲示板に流れるオレンジ色のメッセージ。 麻生行きは2つ前の駅を出発しました。白線の内側で、お待ちください。 イメージする。 今、地下鉄は、駅と駅との間に横たわる、非座標的な黒い「ゆがみ」を疾走している。 多くの人々が猛スピードで、しかしするすると、都市の下を移動している。 恐ろしいほどの移動。 しかしそんな群集の移動が、今この都市の下では、同時にいくつも繰り広げられている。 スキャン不可能な「ゆがみ」の中で、不断に繰り広げられる群集移動。 メッセージが更新される。 麻生行きは前の駅を出発しました。白線の内側で、お待ちください。 地下鉄はもうここへ向かっている。 まもなく届き始める奇妙な轟音が、次第にボリュームを増してくる。 「ゆがみ」から現れる強烈な光。 やがて量塊がするすると目の前に滑り込む。 ドアが開き、乗客が降りる。 それに乗り込めば、僕自身もまた、次の「ゆがみ」を移動する匿名的群集の一員となる。 あるいはその脈動の確信犯。 だが選択する余地はない。 空気の圧縮音と共にドアが閉まり、加速が始まる。 地下鉄は、永遠に不可視な都市の脈動を再び刻み始める。 車輌の中は都市そのものであるが、それは誰にも見られることのない群集空間である。 あるいは外のコンクリート壁に掛けられた蛍光灯だけが、その都市活動の目撃者である。 彼らは何か重要なメッセージを秘めたモールス信号のように、徐々に増す地下鉄の速度とともに、リズムを変えながら登場し、過ぎ去ってゆく。 すすきの 大通り さっぽろ 北12条・・・ 次々に人が入れ替わる。 脈動の構成因子は、不断に更新されなければならない。 穿口は新鮮な酸素を取り込み、血管は絶えず体中にそれを送り込む。 身体は新鮮な酸素を求め、血液は不可視の移動を求める。 意識するに及ばないその自動性こそが、あるいは都市そのものである。 都市はそうして撹拌されて鼓動し、活動している。 都市公園は何も知らない。 北18条。 10分余りのつかの間の脈動を終え、僕はそこから地表へ出る。 関連記事 : 0 3 2 0 地下街、見えざるディストリクト 0 3 0 7 盆踊り ▲ by frdmoptn | 2005-12-14 00:32 TOKYO VR PROJECTなるサイトを発見。
東京の主要エリアをQuickTimeVR化するプロジェクト。 多数のQuickTimeVRを連結し、その空間、街並み、建造物をデータ化しVR空間を構成することにより、新しい情報インターフェースを提案する、というもの。 中でも特に興味深いのは、渋谷駅前のキネティック・ヴォイド空間。 渋谷も人がいないと立川や町田あたりの衛星中核都市にように見えてくるから面白い。 VR空間はインターフェースとしてどのような役割を果たしうるのだろうか。 またそれは、交通や通信メディアがもたらした 「速度」 による都市空間の変容に次ぐ、新たな段階の変容へ繫がるのか。 いずれにせよ、デジタル化された都市空間の体験が実空間体験との差異の中に示唆するものは意外に多いと感じる。 コンテンツがまだまだ少ないので、これから増えていくのを期待したい。 また、VR空間のインターフェース事例として、札幌上空を自由に飛び俯瞰できる不動産検索サイト ビューン も面白い。 ▲ by frdmoptn | 2005-09-14 00:29
A Hundred Days Off を久々に引っ張り出してくる。
ある一群の音が発想させる仮想的な空間の画。そういうものがあるのは明らかだが、そこに音が無くとも、僕らは音の感覚がもたらす思考というものに準ずる何かを、空間の中に見ているのではないだろうか。むしろそのことによって空間を具象化し捉えているという側面もある。「空間」 が未だ明瞭な形を得ない段階において、曖昧模糊としたそのイマジナリーなスペースの中を縦横無尽に走り、横切り、衝突し、撥ね返り、干渉し合う、あるポテンシャルを持った、何かウェーブのようなもの。すなわちそれは、おそらくある部分では空間に時間という概念を投与しているものでもあるが、それを捉えようとするときに、「音的なもの」 ―"ウェーブ"の位相に同化的に進行しながら、それを取り込みキャッチする何か―が、何らかの介助をしてくれているという可能性が、十分にありうる。 ▲ by frdmoptn | 2005-05-27 00:20 前のページ次のページ
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