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0 2 4 8  龍安寺石庭、間と間合い、情況の発生 
0 2 4 8  龍安寺石庭、間と間合い、情況の発生 _c0006990_5402888.gif龍安寺方丈石庭
11:52a.m., 20 March 2004.


龍安寺石庭を推理する
- 石の配置一つとってもじつに奇妙であり、一見無造作に置いたようにしか見えないのだが、反面もしわずかでも石を動かしたら、緊張の糸が切れてしまいそうな、そんな危ういバランスを保っているのであり、ここには作為があるのか、ないのかすらよくわからない。

ところで僕は一時期剣道をやっていたが、【間合い】という感覚を話題に。 剣道における間合いとは、文字通り相手との間隔で、一足一刀の間合い(一歩踏み込めば相手を打突できる距離で、一歩さがれば相手の攻撃をかわすことのできる距離)は、各々の身体能力、あるいは竹刀の長さにより異なる。 つまり剣先の攻防では、自分が相手を打突できる間合いに入り、一方で相手を自分の間合いに入れないことが、非常に重要だ。 だがこちらは、相手の間合いがすぐにわかるわけではないので、構えの剣先の合わせ具合や相手との距離感で、互いに慎重に間合いを計りつつ、じりじりと攻めることになる。 ここに他者との関係としての、【間合い】という感覚が磨かれる。 【間合い】―見えないが確かに存在する結界のありかを捉えること。 それは場、空間、建築を思考することにおいてもまた、非常に重要な感覚だと思う。

龍安寺石庭は、「虎の子渡し説」、「心字説」、「扇形配置説」 など、往々にしてその五群の石の配置自体が議論されるが、【間】という日本の空間意識をかんがみれば、むしろ石と石との【間合い】こそが、すべての情況を語るものなのだ、と考えるべきだと思う。 つまり龍安寺石庭の中枢とは、石ではなく、その【間合い】だということ。 問題にされるべきは"石の配置"ではなく、剣道の一足一刀のような、"危ういバランス"こそである。 剣道において人それぞれ間合いのスケールが異なるように、龍安寺石庭は、見る者によって結界の均衡を変え、結果、人それぞれに異なる解釈として、石庭の意味を自在に立ち現す。

間(ま)・日本建築の意匠
- 石や煉瓦を積んでつくることから始める西欧の古建築と違って、木造の日本建築は、まず、「柱立」、柱を立てることに始まり、その柱から「間を斗って」次の柱をと、立てついで造られる。 人は、この間を斗って立てられた林立する柱のなかで、起居往来する。

【間合い】とは、モノとモノ、人と人の間隔の中に、そこに存在するあらゆる情況を見、均衡を保つ感覚だ。 そこでは自分自身の存在論さえも、他者との関係性【間合い】によって認識される。 だからこそ、時間と空間が未分化な【間】という感覚にあっては、極論だが、【間合い】が破綻すれば、すべての意味が無に帰す。 情況は【間】の中に存在し、【間合い】において発生する。 そんな間合いという感覚を、磨きたい。
by frdmoptn | 2005-04-16 05:42
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